これまでの歩み | 池谷・入山ガイド

小さなムラをみんなで守る!一緒に“ムラづくり”しませんか?

どんなムラ?

これまでの歩み

1600年代~

十日町市の山間にある、池谷・入山の始まりは約400年前と言われています。

1955年~

かつてムラは賑やかだった

昭和30年代の池谷集落。限界集落といわれる前は、大勢の人が暮らしていた。
1955年~(昭和30年代)池谷は37戸170人以上、入山は15戸70人以上が暮らすにぎやかな集落でした。池谷と入山の子供が通う「飛渡第1小学校池谷分校」には一番多い時で70人以上の子供たちがいたと言われています。

小正月、盆踊りなど様々な行事が年間通じて行われ、小さな子供からお年寄りまで多世代が暮らすにぎやかなムラでした。

1960年(高度経済成長期)~

過疎化 ~道が良くなったら、みんなムラから出て行った~


高度経済成長に合わせて労働力が都会で必要となり、村の人口が徐々に減っていきました。さらに、農業とともに生活を支えていた林業が経営として成り立たなくなり、副職であった「機織り」も時代の移り替わりとともに低迷していきました。

また、食生活の変化により全国的な“米余り”の時代となり、稲作農家の経営不振が続きます。

結果、ムラでの生活が困難になり、人口・戸数は激減しました。住民の生活のために拡張した道路が、皮肉にも村から人が出ていくための道になりました。住民、特に子供が減っていくにつれて、徐々に伝統的な行事を省略するようになりムラに活気がなくなっていきました。

2004年(中越大震災)~

中越大震災の発生 ~もうムラをたたむしかないのか~


2004年10月23日、新潟県中越地域をマグニチュード6.8の大地震が発生しました。池谷・入山も余震が長く続き、一週間近隣の小学校で避難生活を余儀なくされました。

家屋は全半壊、道路、田んぼ、神社の鳥居が崩れました。8軒あった戸数が6軒に減り、田んぼの耕作をやめる人も出ました。そこら中ひび割れた集落を見ながら、「もうムラをたたむしかないのか」という所まで追い詰められました。

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十日町市地域おこし実行委員会の発足 ~もう10年地震が早く来ればよかった~

このとき国際協力NGO「JEN」の協力により、復興支援を目的に都会からボランティアが駆けつけました。当初、住民は「ボランティアって何だ?」と懐疑的でしたが、見ず知らずのボランティアが村のために汗水たらして手伝ってくれる姿を見て、住民の意識も少しずつ変わり始めました。

一方、「手伝いに来たはずが、逆にムラの“人”や“自然”に元気をもらった。」と多くのボランティアの方が感想を残していきます。住民とボランティアの心のふれあう交流を通じて、少しずつムラに活気が戻り、住民は希望を持ち始めました。

そして、復興が一段落した時、「知り合ったボランティアの人に協力してもらい、都会の人にこのムラのお米を直接買ってもらうことが軌道に乗ったら、もしかしたら“道”が開けるんじゃないか」と夢を語りだしました。

地元でも池谷・入山の住民を中心とする「十日町市地域おこし実行委員会」(代表:山本浩史、入山出身)を発足。JEN、NPO法人 棚田ネットワーク、企業と連携するなど、より発展した復興活動が可能な体制ができました。「もう10年地震が早く来ればよかった」と冗談を言うまでになりました。

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現在

今 ~故郷を守り、繋ぐこと~


池谷集落の村人税員集合。力を合わせムラ作りをしています。現在、池谷・入山では年間通じて、ボランティア、農業体験のイベントが行われ、小さな子供から学生、社会人、外国人など様々な方が訪れています。震災をきっかけに始まった米の直接販売も独自ブランド「山清水米」を立ち上げるなどで、少しずつ販売量を増やしています。

しかし、池谷は現在、戸数6戸住民13人、入山は1989年(平成元年)に最後の1戸が離村し村は消滅しています。市街に転居した農家も、今も通いで耕作を続けていますが、住民、農業者ともに大半は70歳を超える年齢になりました。ある住民は「頑張ってもあと5年だな」とこぼします。

「“集落の存続”という目標は、住民だけでなく、都会に住む多くの人の願いでもある」、地域おこし実行委員会代表の山本浩史氏は熱く語ります。
“故郷を守り、繋ぐこと”今も、多くの人が関わり具体策を模索しています。